携帯のない生活2
2006/07/12
「携帯のない生活1」の続き。
帰国してから3ヶ月、携帯電話を持たない生活を続けている。 携帯電話は、現代の人の生活には、必要不可欠な物になっている。 今や小学生でも個々に携帯電話を親から与えられ、猫も杓子も携帯電話といった感じだ。 ある一つのコミュニケーションツールという枠を超えて、携帯電話は人々の生活に多大な影響を与えるようになったわけだ。 そんな中、携帯電話を持たずに生活していて、気付いたことがある。 それは、携帯電話に振り回されて過ぎはないか?ということ。 電車に乗っていると、乗客の半分近くが携帯電話をいじっている。 常に着信やメール受信がないか気にし、メールを打ったり、ゲームをしたりしている。また、駅のホームで並んでいる全員が携帯電話の画面を見ている光景は(よく目にすることがある)、実に異常だ。 確かに、携帯電話が便利なことは分かっている。 でも、ソレ(携帯電話)に束縛されている感じしてならない。 持っていないと、けっこう楽だ。 のびのび過ごせている気がする。 掛かってくる電話やメールのことを考える必要はない。 時間や着信・受信にとらわれることなく生活していける。 携帯電話を持っていると、ソレ(携帯電話)に生活を監視されているような気がする。 そして、携帯電話は常に“身に付けるものだ”と勝手に思い込んではいないだろうか。 これは、非常に嫌な考え方だ。実際、自分も携帯電話を持っていたフィリピン渡航前は、そのような考え方をしていた。携帯電話は、(普通に生活をしていれば)24時間365日いつでもどこでも、相手の都合を考えないで呼び出すことができる。しかし、その裏を返せば、いつも誰かに、生活を管理されていることなると思う。 もし電源を切っていたら、相手にどこへ行ってたのとか問い詰められることもあるだろう。携帯電話が繋がらないだけで、怒る人も出てくるだろう。携帯電話は必ず繋がるものであり、携帯メールは数分以内に返事があると思っている。 何だかなぁ...煩わしい。 というか、自分勝手な言い分である。 携帯電話を持たなくなったら、どうなるか?! 誰とも連絡が取れず、何の情報を得ることができず、生活できない状況に陥るか?! でも、よく考えてみてよう。 「電話」 →固定電話から掛ければいい 「メール」 →パソコンからできる、時間は掛かるが手紙という手段もある 「情報」 →テレビ/新聞/インターネット等がある 「暇つぶし」→電車の中なら本を読む 別に、なくても問題ないのである。 少なくとも10年前は、ほとんど人が携帯電話を持っていなかったのだから...。 なくても問題ないけれど、いま多くの人が持っている携帯電話。 「あったら便利なものはなくてもいいもの」とこの前のエントリで読者がコメントをしてくれている。 時間の流れが速く、情報の坩堝にある社会の中で、効率的にかつ迅速に物事を処理しなくてはいけない時代。そうやって、現代社会が成り立っている。だからこそ、本来は「なくていいモノ」なのに、「なくては生きていけないモノ」と思っている人も多いのではないだろうか。 フィリピンの時間の流れが懐かしいな。 まだ続く... |
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