冷蔵庫の霜取り
2005/04/27
うちの冷蔵庫の冷凍室。
こんな状態。 霜取りをしないでしばらく放っておくと、こうなる。 前回の霜取りから3ヶ月経った頃だろうか、そろそろ冷凍室の容積の半分が霜で埋まりそうな勢い。3ヶ月でこんな状態だから、1年も放っておくと、霜だけで埋まるだろうな。 霜が付くと、冷蔵庫の機能・性能が悪くなるって聞いたことがある。 ということで、今日は霜取り作業の日。 冷蔵庫の電源を抜き、扉を開けっ放しにして、さらに扇風機を正面に据える。この扇風機がミソで、あるのとないのとでじゃ時間が全然違ってくる(実証済)。 後は、溶けるのを待つ。 でも、面白いからスプーンや包丁でゴリゴリやってみたり、お湯を沸かして掛けてみたりする。でも、放っておくと水びだしになるので、雑巾やティッシュで溶けた水を拭き取る。1時間を経過した頃から周りの氷壁が剥がれてくる。それ(まな板くらいデカいのも出てくる)を取り出し、松坂や高津や岩隈の投球フォームを真似しながらバスルームに思いっ切り投げて割るのが快感! 今日は、岩隈のピッチングが快調。 合計10球ほど全力投球をしました。 霜取り作業は2時間半で終了。 疲れた...。 また、3ヶ月後にやらなくてはなぁ。 そう言えば、日本で霜が大量に付いている冷蔵庫ってあまり見なかった気がする。今や、ほとんどの冷蔵庫が霜取り機能付きなのだろうか。便利ですね。 |
人の食事は自分の食事
2005/04/26
朝、起きたら10時だった...。
午前中のうちに片付けておきたかった作業が終わらず。 午後は、遂行中のプロジェクトの簡易ミーティング。 今後の進め方について関わっているメンバ4人とボスで意識合わせを行った。約30分程、ミーティングというと堅いイメージがあるが、それよりもっとカジュアルでお喋りに近いようなもの。プロジェクトの真面目な話をしているのに、いつの間にか女の話に脱線してしまう。こういったラフな感じのミーティングは気兼ねがなく意見が言えるのがいい。 食事の話。 平日の昼食は毎日、同僚とカンティーン(食堂)に行く。 夕食もたまに一緒に食べる。 オフィスの周りには幾つものカンティーンがあり、我々の行きつけは近場の3つ。日によっては12時に行ってももう売り切れている場合のがあるので、次に店に行く。ライス1杯・おかず2品・コーラ1本を注文して、P25〜P40。 おかずは肉・野菜・スープとけっこう種類があり、人によって1品頼んだり2品頼んだりする。5人で食事をすれば8皿くらいはおかずが並ぶ。このおかず、基本的には誰でも食べて良い。そう、人の食事をつまみ食いして全然構わない。 最初の頃は面食らった。 急に周りから手が伸びてきて、自分のおかずをさらっていく。自分で自分のためにお金を払って買った食事なのに、気を抜くと半分くらい食べられてしまうのだ。でも、まぁこれがフィリピン式なんだろうと文句も言えずに、また人のおかずを食べるのも何か抵抗があり、ただただ耐えていた。おそらく相手にとっては、このスタイルが普通なのであって、日本人がこんなことを考えていたなんて思ってもいないだろう。 これは、食事は皆でシェアするというフィリピンの習慣の一つなのだろう。 今となれば、自ら先に人の食事に手を出す。もちろん、損をしないように。注文する時に、前に並んでいる同僚を観察し、肉を頼んだ時は、今日は肉を頼まなくていいんだなんて思ってしまう自分がいる。人のおかずをつまみ過ぎて、大笑いされることもある。そして、おかずがなくなれば、醤油と酢を掛ければ、ライスだけでも食せる。 立派なピノイ化。 夜は、英語の授業。 明日は講師が都合が悪いというので、火曜日の今日に変更になった。 実は、3週間ぶりの授業だったりする。 まっ、ヒナーイ・ヒナーイで。 |
古田選手 2000本安打達成
2005/04/24
古田敦也選手、2000本安打達成おめでとう!
本来ならば、このブログは隊員活動やセブでの生活が中心ですが、今日は特別な日。 フィリピンより、古田選手にお祝いと感謝の意を込めて! プロ野球ヤクルト・スワローズの古田敦也捕手(39)が24日、松山市の坊っちゃんスタジアムで行われた広島戦で、通算2000本安打を達成した。前日まで1999安打としていた古田は6回、大竹寛投手から三塁線を破る二塁打を放った。 大卒で、社会人を経験した選手としては初の快挙! 捕手としては、恩師のノムさん(元ヤクルト監督・野村克也氏)以来2人目の快挙! ヤクルトの生え抜き選手では、現ヤクルト若松監督以来2人目の快挙! 古田選手で史上32人目なのだが、そのほとんどが高卒でプロ入り。 社会人経験者で2000本安打を達成したのは、門田・福本・落合・大杉・若松など数人いるが、落合監督以外は高卒。落合監督は大学を半年で中退し社会人入りしている。このことを考慮すると、いかに古田選手が偉業を成し遂げたか分かる。しかも、キャッチャーという重責の中で。 親子3代のヤクルトファン、つまり「ヤクルトファン歴=年齢」の自分は、プロ入り以降16年間ずっとヤクルトの古田選手を見てきた(その前の捕手は八重樫コーチ)。 現中日落合監督との熾烈な首位打者争いの中、最終試合でヒットを打ち、首位打者になった1991年。史上初のオールスターでのサイクルヒットを成し遂げ、15年ぶりにリーグ優勝をした1992年。1990年代の10年間で、4度のリーグ優勝・3度の日本一というヤクルト黄金時代を支えてきた。古田選手が怪我等で不調な年は、チームも沈んでしまうと言われる正に『燕の要』。 2000本安打を映像で見れないのが残念です。 実は、ヤクルトファンの友人が先週末から神宮に通っていた。 開幕前で残り16本という時点で、達成日を4月16日(土)の虚塵戦(このPC、何故か讀賣を“虚塵”としか変換しない)と予想し、友人4人が神宮観戦をしていた。結局、その日は達成ならず、翌週の横浜戦も神宮に乗り込んだのだが、本拠地での達成はできなかったとのこと。でも、古田選手が打席に立った時の、盛り上がりは凄かったらしい。 その時、携帯電話で撮影したという画像がコレ↑ 1995年・1997年・2001年とリーグ優勝、そして日本シリーズ優勝の翌日は、駅にあるスポーツ新聞全社を購入した(今でも実家に保管してある)。もし、自分が日本にいたのなら、明日は全種類のスポーツ新聞を購入しただろう。当然、各社一面は古田選手の記事だろうしね。 この2000本安打はあくまでも通過点。 今年40歳を迎える古田選手、マスコミの中にはこれで引退という説も流れているが、まだまだ現役バリバリで頑張ってもらいし、やってもらわないと困る。2番手の捕手が育ってないスワローズの現状を考慮すると、あと2,3年はやれるはず! 古田監督というのも見たい気持ちも正直あるが、それは5年後でも、もっと先でも構わない。 古田選手、本当におめでとうございます! 古田敦也公式ブログにトラバ! |
なぎさ2号重傷
2005/04/23
なぎさ2号 の修理。
先月、後輪がパンクしてから、ずっと放っておいたの「なぎさ2号」。空気を入れても入れても、膨らむ気配すらない。早く乗りたいし、このままにしておいても仕方ないので自力で直すことにした。 パンク修理キットを購入し、実に7,8年ぶりにパンクの修理にトライしてみることにした。中学の時に父親から自転車のパンクの直し方を教わり、高校の時は15分もあれば簡単に修理できていた。でも、これだけ年月が経つと・・・ちょっと不安。必要な知識と要領は分かるので、まぁ大丈夫だろう。 まずは、「なぎさ2号」を手術台の上の乗せる。 リムとタイヤの間にタイヤレバーを差し込む。スポークに引っ掛けられるタイプなので、3本もあれば十分。ゆっくり小刻みにチューブを出す。 チューブを出した状態。本来なら、ここで空気を入れ、バケツの水の中にチューブを入れ、パンクの箇所を探す...のだが。 何だ、この巨大な穴は! 完全に割けてしまってるじゃん! これは、パンクとは言わない気がする。こんなの直せない。 ということで、パンク修理を断念。 チューブを新しく買って交換しなければならない。 チューブの交換は、タイヤを外さなければならないから面倒くさい。 自転車のタイヤのチューブなんて売っているのかなぁと思っていたら、やはり簡単には見つからない。ショッピングモールのスポーツ用品店を幾つも回ったのだが、チューブを売っている店は1つしかなく、しかも欲しいサイズは置いてなかった。その後も探し回り、結局ある店の店員に言われたコロンの自転車屋まで足を運んだ。 3時間探し続け、ようやく欲しいサイズのチューブを手に入れた。 1本P45と、意外に安かったので2本購入。 帰ったのは夜だったので、修理は中断。 明日以降に持ち越し。 やっぱり、あまり安いMTBは品質が悪いのかな。 そもそも、フィリピンのMTBだからかな。 早く善くなってくれるといいが...。 |
家を失った人々は
2005/04/22
オフィスの隣で起きた火事から10日ほどが過ぎた。
焼け落ちた家々は、現在復旧作業を行っているのだが、自力で家を建てているようでなかなか捗っていない。一体、いつになったら家が建てられるのだろう。 そうそう、火事の二日後からオフィスの前に大型バスが2台も止まっていた。かなり汚くてボロボロで窓もないようなバスが2台。何のためだろうと思っていて、よく観察してみたら、中に大きな荷物が入っていて、そこで寝泊まりしている人が沢山いる。あっ、これは日本で言う「仮設住宅」なんだと気付いた。 バスの中は暑いかもしれないが、一年中夏のため凍死する心配はないからね。 けっこう意外だった。 対応、早いな、と思った。 仮設住宅がバスであっても、そのおんぼろの度合いがどうあれ、火事の二日後から生活する場所が用意されたのだ。セブ市の策か、または誰かが個人的に用意したのかは定かでないが、家を失った当初は何もできない人々がこれで救われたころだろう。 このバスが本当にオフィスの目の前、エントランスの真横にあるため、行きも帰りも必ず見にすることになる。この2台に何人が生活しているか分からないほど、人で溢れている。バスの前で洗濯をするおばちゃん、バスの前で肉をやくおじちゃん、バスの前で遊び回る子供達、何とかやれているようだ。オフィスを出て挨拶をすると、皆笑顔で返してくれる。 もう火事なんか忘れたかのような振る舞い。 無くなってしまったモノは仕方ないと思っているのだろう。多くの家族が助け合い、生活している。逆に、今のバスの生活を逆に楽しんでいるようにも見えてしまう。 フィリピン人って、すごいなと思った。 |